管理人がタカのワタリに、嵌まったのは2010年10月2日からです。このときのブログを読み返してみると、本人曰く、「ビギナーズラック」とちゃんと弁えているところが、奥ゆかしくていいですね(笑
実はこの年の5月には三番瀬でソリハシセイタカシギにも遭遇しているのです。この年で一生分の探鳥の運を使い果たしてしまったのではないかと本気で心配しましたが、そんなこともないと思っています。
さて、タカのワタリですが、今でも撮影することがメインなのですが、いつの頃から最後に南に飛んでいくときに、「さうよなら、又来いよ」と心の中で念じるようになりました。時には声に出して、手を振りながら「さようなら」とやることもありますが、どうも中年親父ではあまり様にならないようです。
旋回を重ね高度を上げ、最後にすーっと流れていくように去って行く。一体いつ頃から繰り返されているのか分かりませんが、とかく別れというモノは感傷的になりがちです。毎年秋になるともぞもぞするのはこの感傷的な別れを忘れられないからなのかなと自己分析していますが、どうでしょうか。
それと雲海の中を編隊を組むようにサシバが渡っていくシーンも良かったですね。これは撮影は不可能でしたが、フィールドスコープでじっくりとワタリを観察することが出来た時はかなりの感動モノでした。
まあ、年齢を重ねると感動したり感激したりということが少なくなっていくように感じます。それを何とか増やそうとせっせとこの時期になるとタカのワタリを追いかけているのでしょうか。まあ、生きとし生けるものが愛しく感じる年齢になってきたこともあるのでしょうが、生命のダイナミズムに触れることは、理屈抜きに惹かれるモノがあるような気がします。時に生命のダイナミズムは残酷な場合もあります。でもそれは生命の連鎖の中で必要な訳で、それを否定することできないでしょう。
本来、自然というのはあまり生き物に優しくない場合があります。だけど、自然を破壊すると生き物は生きていけない。まあ、厄介な相手ではあります。考えてみれば、サシバやハチクマだって渡らずに生きて行けたら実はその方が楽でしょう。でもそれを自然が許さないと見ることもできるのではないでしょうか。
渡らない鳥たちもいますからその存在を考えると、ワタリを必要とする鳥たちは随分と自然から不公平な扱いを受けていることになります。でも、人間と違って不満を口にすることなく、そのリスクを淡々と受け入れて、生命をつないでいる訳です。
思えば、大抵の観察者や撮影者が好きな夏鳥のオオルリ、キビタキ、サンコウチョウなんてのも渡り鳥です。ワタルが故の希少性も人気の一因でしょうが、管理人的にはこれらの鳥たちに惹かれるのは、ワタリのリスクを背負っていて、それがなんとも言えない、切なさを醸し出しているからではないかと勝手に考えています。
危険を背にして渡って行く。考えてみればなんとも不合理な気もしますが、鳥のワタリも無くなってしまうような世界になったら、人間もまともには生きていけないような気もします。
まあ、理屈は抜きにして来年も、再来年も、可能な限り、ワタリを見たいですね。